ブリタニヤの歴史

ブリタニヤP&Iクラブは1855年に産声を上げました。現在とは様子が大きく異なる時代です-フランスとイングランドはロシアとのクリミア戦争のまっただ中にあり、探検家であるデイヴィッド・リヴィングストンはヨーロッパ人として初めてヴィクトリア滝を発見し、デイリー・テレグラフ紙が最初に印刷された年です。しかし、まだスエズ運河もカティーサーク号も建設されていませんでした。

その年、ヨークシャー州イースト・ライディングの農家の14人兄弟の末っ子であったジョン・ライレーと、その従兄弟で船主兼ブローカーを生業とする一家から来たピーター・ティンドールが、世界で初めてのP&Iクラブを創設しました。

当クラブは当初、帆船だけを対象にしていましたが、1871年、Peter Tindall, Riley & Coは、鋼鉄製蒸気船だけのクラブのマネージャーとなりました。当クラブの名前は、海の女神でありイングランドを擬人化したブリタニヤにちなんで命名されました。

1860年代、Tindall Riley & CoはロンドンとSunderlandにオフィスを構えていました。当クラブの理事会には7人の理事がおり、全員が英国船主でした。

1876年までに、当クラブは3種類の保険を引き受けていました。これらは、船体リスク(クラス1)、運賃リスク(クラス2)、そして現在にも続くプロテクション・リスク(クラス3)でした。

19世紀半ばに制定された法律によって、船主は、過失による死亡事故によって多大な賠償責任に直面すことになりました。これによって、保険の範囲が拡大することとなりました。当クラブは、1870年に最初の死亡のクレームに対する支払いを行なました。

また、蒸気船の出現も重要な契機となりました。新型船を操船する経験がなかったため、今まで以上に深刻な衝突事故が起きることになりました。このため船舶保険者は、衝突賠償責任の填補範囲を75%に制限することとし、その結果、当クラブは残りの15%について補償を提供することになりました。1899年に、当クラブは、他の5つのクラブともに、10,000ポンドを超える事故についてリスクを共有する再保険協定を結びました。

20世紀は、当クラブに新たな挑戦をもたらし、また、重大事故も起ることになります。第二次世界大戦後、当クラブの性格は大きく変わり、イギリス外からのメンバーが増え、トン数も増加し始めました。

1947年4月、テキサスシティで硝酸アンモニウムを積み込んでいたHMS Grandcamp号で火事が発生しました。爆発と火災の後、300人が死亡し、3,000人以上が負傷しました。この恐ろしい事故により、P&Iクラブは、大参事のリスクに曝されていることを認識します。ほどなく当クラブと他クラブは、250,000ポンドを超えるクレームについて、ロイズ・オブ・ロンドンから再保険を受けることになりました。現在の再保険契約およびオーバースピル共同再保険は、国際P&Iグループに加盟するP&Iクラブに対し、最高30億ドルの補償を提供しています。

1960年代に台湾の船が爆発し、甚大な被害をもたらしました。しかし、船体価値だけしか保険がかけられていませんでした。これを契機に、香港および台湾の船主は、適切な賠償責任保険の必要性を認識することになりました。これ以降、当クラブのアジア・メンバーは、着実に増加していきます。今日、アジア船主は、当クラブの加入トン数の約半数を占めています。

1970年の当クラブの加入トン数は1,100万トンをわずかに下回る程度でしたが、それ以降、1億0700万トンまで増加し、さらに用船者加入は1,700万トンに達しました。

150年以上前に世界で最初のクラブを結成したジョン・ライレーと船主は、これほどまでP&Iのコンセプトが成功するとは予見できなかったでしょう。急速に変化し競争の激しい世界において、当クラブは通常の保険会社とは区別されるサービスを提供し続けています。

当クラブは、強固な経済基盤に裏付けられた互助性を基本理念として、優良メンバーに対して一流のサービスを提供し、国際P&I保険業界を牽引し続けています。